【動画】第5回「飯盛城跡の全貌」中井均氏(滋賀県立大学名誉教授)アクロス歴史文化カレッジ飯盛城跡国史跡指定記念事業「飯盛城跡と三好長慶」

第5回・飯盛城跡国史跡指定記念アクロス歴史文化カレッジ2021「飯盛城跡の全貌」講師:中井均 飯盛城と三好長慶

当日レジュメ

令和3年度アクロス歴史文化カレッジ「飯盛城跡と三好長慶」第5回 2022/01/09

飯盛城跡の全貌

滋賀県立大学名誉教授 中井 均

◆はじめに

・祝!国史跡指定(2021/10/11) ⇒ 大阪府としては千早城跡、楠木城跡(上赤阪城跡)、赤阪城跡、烏帽子形城跡に次いで5例目(近世城郭などは除く)

・戦国時代後半の三好長慶による築城が評価された ⇒ 石垣、礎石建物など【日本城郭史において戦国時代の本格的な石垣導入と、山城居住の存在】

◆飯盛城跡の構造 -①石垣-

・圧巻!ほぼ城域の全域が石垣によって築かれている ⇒ 戦国期山城では観音寺城と双璧をなす【土の城から石の城を指向】

特に東側曲輪に多く用いられている ⇒ 登城道筋に意識的に構えたものか【登城者たちに見せる石垣】

・飯盛城跡石垣の特徴 ⇒

①石材は基本的に自然石もしくは粗割石を用いる
②粗割石は飯盛山に露頭する花崗岩の摂理を利用して割り取る
③地業はほとんどなされず、基底部の石を地上に据えて石材を積み上げる
④石材は控えに対して小口部に大きい面を揃える
⑤勾配は垂直に近く直線的である

加えて、

▪出隅を意識的に構えて築石部の直線的塁線を補強している
▪出隅には方形石材を意識的に用いるが算木積みとはならない
▪4mを超える高さに積まれることはない(高く築かれている箇所は段積みとする)
▪巨石を用いられることはほとんどない

◆飯盛城跡の構造 -②山城居住-

・飯盛山(標高314m)の南北尾根に中心部を配置 ⇒ 巨大な堀切によって城域が南北に区画される【北部:防御空間[Ⅰ郭(高櫓郭)・Ⅱ郭(本郭)・Ⅲ郭・Ⅳ郭(三本松丸)]、南部:居住空間[Ⅷ郭(千畳敷郭)]とそれを防御する空間[Ⅸ郭(南丸)]】

・Ⅷ郭(千畳敷郭)の発掘調査 ⇒ 曲輪造成の盛土【南北の瘠せ尾根に対して大造成を施して広大な曲輪面を確保】
礎石の検出 ⇒ 柱間は通らないものの礎石建物の存在は明らかにできた【山城での居住施設や政治、文化の場としての礎石建物】

※芥川城跡では縁の廻る礎石建物が検出されている

・「かくして我らは城の麓に至るまで川を遡った。太陽はすでにほとんど沈みかけており、我らは城の上に登るまでには、非常に険しく難儀な道をおよそ半里、歩かねばならなかったが、船を降りると、すでに駕籠が私を待っていた。駕籠を担ぐ人々は甚だ急いで道を進んだが、大きな杉や松の森に覆い尽くされた山の中で夜になった。さっそく、山頂から松明が届けられ、これにより私を運んでいた人たちは、六名であったが、道中の難儀をさほど感じなくなった。すでに夜も更けた頃、山頂(飯盛山)に到着し、我らは司祭や件の貴人、およびその家族から多大な歓喜と満足をもって迎えられた。」(1565年、アルメイダが飯盛城にいるガスパル・ヴィレラに会いに行く。『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅲ期2巻、ルイス・デ・アルメイダ修道士がルイス・フロイス師と共に都へ旅したことにつき、福田で(イエズス)会の修道士らにしたためた書簡、1565年10月25日付)

  ⇒ 山城に住んでいたことを見事に伝えている

・「その国主は三好殿(長慶)と称する。彼は領国中で最も強固な城の一つである当城(飯盛城)に、己れの最も信頼する家臣らと一緒に留まっており、また、彼ら(家臣)は家族や妻子とともに同所に住んでいる」(同書簡)⇒ 家臣団と家族も山城に住んでいた可能性【Ⅷ郭(千畳敷)の曲輪群や谷筋の曲輪群】

 ※近江観音寺城、播磨置塩城跡などの山城でも家臣団屋敷の存在が判明している

・永禄4年(1561)三好長慶は飯盛城で千句連歌を興行する[五畿内名所興行]。永禄5年(1562)三好長慶が飯盛城において道明寺法楽百韻を催す。永禄6年(1563)、三好長慶は飯盛城において連歌を興行する

永禄6-7年(1563-4)に飯盛城で貴布祢山の相論について裁許を行う⇒ 山城が政治や文化の場となっている【山城が戦いの場から大きく変容する】

・飯盛山を見上げる領民 ⇒ 山城でおこなわれた裁判や宴を知っていた【戦国時代の見せる城】

◆飯盛城跡の構造 -③聖地の空間-

・Ⅴ郭(御体塚郭)の存在 ⇒「御体塚といへるあり、中心壱坪許高くして石垣を繞らせり。是れなん三好長慶の墓にあらざるか、長慶は当城に病死したるも喪を秘せしこと二年余に及びしといへば、其の逝きしことの外に洩れんことを虞れて此に葬りし為め、意味ありげなる此の塚名を残せるものなるかの如くに想はる。」(『大阪府全志』1922)

・Ⅴ郭(御体塚丸)の構造 ⇒ 北方に巨大な堀切【城域の北端部】小曲輪 ⇒ 中心部に削り残した岩盤【磐座としての曲輪】

※岩盤を削り残す曲輪は城郭構造としての曲輪としてはあり得ない ⇒ 岐阜城本丸(上之権現か)、小野城跡、大桑城跡など

・Ⅴ郭(御体塚郭)の発掘調査 ⇒ 塼列建物(4×6m)と石組遺構の検出【壁土と雁振瓦の出土により土壁造りで棟のみ瓦葺きの建物が想定できる】

※塼列(塼貼)建物 ⇒ 高屋城跡、芥川城跡、置塩城跡、感状山城跡、端谷城跡、御着城跡などでも検出される【通常は耐火構造の蔵として使われることの多い建物】

Ⅴ郭(御体塚丸)の塼列建物 ⇒ 曲輪の端に位置しており、屋根は本瓦葺きとはならない

【蔵ではなく、櫓などが想定される】

・石組遺構 ⇒ 塼列建物と軸線が揃う【建物基礎の可能性が高い】
・出土遺物 ⇒ 口縁部に煤の付着した台付皿(2点)【極めて特殊な形態の灯明皿】多量の鉄釘【建材または建具に用いられたもの】
・飯盛城への新羅社勧請 ⇒「十九日辛巳、晴、自松永弾正少弼久秀以清少納言(清原枝賢)申来云、飯盛城ニ可勧請新羅社入目、可注給候云々、仍凡先注遣了、」(『兼右卿記』永禄3年(1560)11月19日条)【新羅社の祭神は新羅明神で、源義光が近江三井寺の新羅善神堂で元服したことより新羅三郎と称する】

※三好氏は源義光を祖とする信濃小笠原氏の支流と自称している

◆おわりに

・織田・豊臣城郭の誕生 ⇒ 石垣、瓦、礎石建物という3つの要素を兼ね備えた城郭【統一政権のシンボルとしての見せる城】

飯盛城跡の全貌 ⇒ 石垣、瓦、礎石建物の存在が明らかとなる【織田信長に先行する3つの要素を取り込んだ城郭の築城】

※天文22年(1553)-永禄3年(1560)まで居城としていた芥川城跡でも発掘調査の結果、石垣、瓦、礎石建物が検出されている

・一方で縄張り構造はそう発達したものではない ⇒ 明確な虎口がほとんど認められないし、塁線にも折が構えられず横矢が掛からない。また、城域を明確に設定する堀切も南北端ともに構えられない
・天下を意識した三好長慶と織田信長の築城した城郭構造が同一の要素で構成されている⇒ 城郭遺構が政治体制を物語る資料として評価できる【国史跡飯盛城跡としての価値の存在】

(参考文献)
・大東市教育委員会・四條畷市教育委員会 2020 『飯盛城跡総合調査報告書』
・實盛良彦 2021 「飯盛城跡出土の台付皿と「御体塚」」『中世土器研究』141号 中世土器研究会

資料1

資料

資料2

資料2

令和3年度アクロス歴史文化カレッジ 「飯盛城跡と三好長慶」
第5回  2022/01/09 飯盛城跡の全貌
滋賀県立大学名誉教授 中井 均
飯盛城跡国史跡指定記念 アクロス歴史文化カレッジ2021
主催:大東市立生涯学習センターアクロス(指定管理:(株)アステム)
協力:摂河泉地域文化研究所、飯盛城跡国史跡指定記念事業実行委員会

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